転地療法の効果とその後

 転地療法はそれなりに効果があったと思います。もともと偏食気味であった私の食生活も、ほとんどが野菜という食生活に否応なしに適応していくようになり、また祖父と一緒に山へ出かけたりすることによって体力もつきました。

 そんな田舎で毎日どんな生活をしていたのか。これを読んでいる方は疑問に思うことがあると思います。すなわち「学校はどうなったんだ」ということです。

 実は学校は転校したわけではなく、長期欠席でした。つまりおよそ半年以上私は学校を休んでいました。小学校1年の時です。

 従って石川県では毎日が休みで、朝は寝放題。祖父祖母は早朝から田んぼや畑の仕事で出かけています。私は朝の10時頃一人で起きて、用意されていた朝食を食べ、家の周りをぶらぶらしたり、畑に様子を見に行ったりという生活が続きます。

 やがて同じ村の小学生が遊びに来てくれるようになり、一緒になって家の周りで遊んだりもしました。両親と離れて寂しい思いをしていたはずですが、苦しい発作があまり出なかった事で、寂しさも我慢できたようです。

 やがて冬が来て、暖かくなってきた頃学校に戻ることになりました。石川県ではほとんど出なかった発作は、東京に戻ると残念ながらぶり返しました。しかし食生活や体力がついたためか、以前ほど悲惨な状態にはなりませんでした。

 もともと喘息は年齢と共に軽快し、人によっては思春期頃に治ってしまうことが多いようです。つまり何もしなくても、我慢していれば年齢と共に治る可能性があるわけで、私の場合も転地療法が効を奏したのか、単に成長と共に体力がついて症状が軽くなったのか、どちらなのかは判然としません。

 東京に戻ってきた私は早速長期欠席状態から戻ることになりましたが、時期的には次の学年への進級時期でした。しかし私は半年以上通学せず、その間勉強は一切しませんでした。

 ともかく勉強より喘息治療が優先されたわけです。しかしいざ学校に戻る段になって、両親も心配したんだと思います。元の担任に相談したようです。

 とはいうものの石川県の田舎に行ったのが、小学校1年生の夏ですから、学校ではそれほど授業が高度になっていたとは思えません。義務教育ですし、本来なら全く問題なく2年生になるはずでした。

 しかし私は1月生まれで、同年代の子供達とは喘息の影響もあり体力差は歴然としていました。そういった体力面と今後の学習面を考えての事だと思いますが、担任は1年遅らせることを提案し、両親もそれで納得してしまいました。

 今自分自身が教育の仕事に携わっていて、日常的に不登校の生徒を見ていますが、当時の長欠はめずらしかったのかのかもしれません。大事をとって、という言い方がもっとも適切かなあとも思いますが、なんと小学校1年生で留年ということになりました。

 私のほうは、それが今後どのような意味を持つのかを深く考える知恵もなく、そのまま両親の提案を受け入れ、再度1年生をやり直すことに同意しました。同じ事をやり直すんだから、勉強も楽だと思ったことは今でも覚えています。

 こうして、1年前に同時に入学した子供達は2年生、私は1年生という奇妙な友人関係になりましたが、体が弱いということは知れ渡っていたため、それほど違和感なく受け入れられたようです。

 ただその後高校までは、同級生より1年上であるということを常に意識していました。

 肝心の喘息ですが、東京に戻ってもやはり季節の変わり目には発作が起き、相変わらず体育は休みがちで、自他共に認める虚弱体質児童ということになっていました。

 自分自身でも、自分は体力がないので、将来の展望はあまりないなあ(短命だろうなあ)という暗い予想を抱いていました。



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